どうも。わとむ2号です。
今回は、石垣島で出遭った素敵なおばぁについてお話させてください。
滞在2日目です。レンタカー観光客の皆さん同様チェックポイントを巡っていた時に立ち寄った明石地区の農産物直売所でのことです。
販売所はブロックと板張りの壁と茅葺の小さな建物でした。どんな農作物があるのかなと思って中を覗いてみると・・・。中で、一人のおばぁがちょうど食事中でした。 聞くと、平日の1日を除いて、ほぼ毎日店番をしているそうです。無人販売所だとお金を置かずに持って行っちゃう人が多いからだそうです。こんなところでもそういうことがあるんだとちょっと残念でした。
「僕も農家なんですよ」と言うと、石垣島の農業についていろいろ教えていただきました。
石垣島では、酪農とさとうきび農家が大半で、その他の農作物を作る人はあまり多くないこと、おばぁも若い頃は“さとうきび”を栽培していたらしく、“さとうきび”の定植、夏の暑い時期の栽培管理、冬の収穫の様子を語ってくれました。
「夏とかは大変でしょう。」と聞くと、
「今は、楽だよ~。皆機械だから。昔は、機械なんてないから、ユイマールでね。」
「ユイマール?」
「村の人間がみんなで助け合って、畑を耕したんだよ。」
そう、ユイマールとはみんなで助け合うこと。世界遺産岐阜県白川郷合掌造りの屋根の葺き替えを村の人が助け合うのと同じように、ここ沖縄にも“助け合いの精神”があり、それをユイマールと言うんです。
僕は失礼なことだと思ったのですが、おばぁに思い切って聞いてみました。
「おばぁ、戦争中はここに居たの?」
「(沖縄)本島にいたよ。」
「えぇ!じゃぁ、沖縄戦を経験したの?」
「沖縄の海を、“アメリカさん”の船が埋め尽くした光景は忘れられないね~。」
「・・・。映画とかドラマとかでしか知らないけれど、大変だったんでしょ。」
「昔の沖縄の老人は、標準語が喋れないから、日本の兵隊さんと言葉が通じなくて・・・、そういう人はみんなスパイだといって連れて行かれちゃったよ。でもね、どこだったかな、長野だったかな、寒いところから来た兵隊さんは、優しくしてくれたね。」と昔を思い出したようでした。
今年85歳になるというおばぁは、戦後、沖縄本島が焼け野原となり住むところが無い為、“アメリカさん”の指導の下、ここ石垣島に移住して、ジャングルだった島の北部を少しずつ開墾して、“さとうきび”で家族を育てて生きてこられた方でした。
「戦争はね~、するもんじゃないよ~。」
最後に微笑みながら語ったおばぁの言葉は、どんな偉い政治家や評論家よりも、重く、僕の心に届きました。
どれだけ辛い思いをしてきたか、どれだけ辛い体験を積んできたか、そして、それらを一つ一つ乗り越えて、今の、この「微笑み」に昇華させることができた“おばぁ”に語りかける言葉は、もう僕には持ち合わせていませんでした。
おばぁ、ありがとう。長生きしてね。そして、お弁当冷めちゃってごめんね。